1983年生まれ 北海道出身
(株)LOVEWORLD 代表取締役
小さな頃からおてんばで、4歳から水泳を習い始めました。小5でチャンピオンになって以降、北海道ではもう負けなし。でも、いざジュニアオリンピックにいくと、予選落ち…そこから選抜チームに入り、泳ぎのフォームの改善に取り組んだらスランプに陥り、北海道でさえも勝てなくなった。そこでキッパリ水泳を辞めました。
べつに何でもない…って顔をしていたけれど、本当は、死ぬほど恥ずかしくて、死ぬほど悔しかった。数年後、同じスクールの子がオリンピック選手としてテレビに出ていた。応援するより前に、呆然とした。…あの時、スランプに立ち向かっていたら、自分もあそこに立てたのだろうか。そんな言葉が頭の中でグルグルと回っていた。
やってみたら、ある程度、人並み以上にできちゃうもんだから泥臭くあがいて努力をする前に、「まあ、このへんでいいっしょ?」とスマートにまとめてしまう。水泳の頃から、このやり方が生き方のクセになっていた。
「必死で努力した挙げ句、届かない」のが、きっと怖かったんだ。それに気づいたのは、ずっと大人になってからのことでした。
中学の初めの頃、私の家にPCがやって来た。ペイントツールで中学〜高校の間は描きまくりでした。ホントは、美大に行きたかったけれど「芸術で食べていける人なんていないぞ!」とおカタイ両親に言われ体育大学に進んだ。でも、ずっと絵を描いていた。ラグビー部のマネージャーになってからもTシャツをデザインしたり、部員の似顔絵を描いたりして。ポストカードを書いてフリマで売ったり、バンドを組んだり。まったく体育大学らしくない学生。
一応体育の先生をめざして教育実習にもいったけれど、やっぱりおもしろくなかった(笑)だから結局、就職は一般企業。入ったのは、医療機器を扱う「THE 営業会社」っていう感じのところ。同期入社が20人いたけれど、次々に退職し、残ったのは私一人。ものすごく売って稼いでいる先輩たちもいて、ちょっと憧れてました。がんばってみたら、2年目で私も年収2000万円になれた。
でも、逆に空しくなった。同じ立場になってみると憧れていたはずの先輩たちは、ちょっと小さく見えた。そうか。お金を稼ぐだけでは幸せになれないんだ…
当時、つきあっていた彼氏(今の旦那さん)は消防士。月末はお金がないからと、ジャムパンをうまそうにかじっていた。彼はお金がなくても幸せそうです。だから、私は会社を辞めました。
退社した私は、学生時代からつきあってきた彼氏と結婚。彼の地元の大分に引っ越し、専業主婦になりました。数ヶ月は何もせず、24時間、海外ドラマばかり見て過ごすも退屈になってきたので大分のホテルに就職。ウエディングプランナーになった。
あるとき、ふとしたことでお客様の新郎新婦に絵が上手いとバレちゃって、ウエルカムボードを依頼されました。1枚描くと次々頼まれるようになり、かなりの数を描きました。
そうして30歳になった頃、その職場で仲良くなった同じ年の友人が、仕事を辞めて東京に引っ越したんです。一緒にいた頃は、わりと暗くてビンボーな子でした(笑)それが、いきなりブログを書き始めて急にキラキラしだした。そして「ブログで私は、本を出版する!」と言う。私は、「いや、無理だから!」って鼻で笑ってたんです。
でもその8ヶ月後、見事に出版。瞬く間に大人気になり、すごい稼ぐようになっていった。もう、ポカーンって感じでした。この彼女こそ、今もなにかと一緒にいるHappyちゃんです。
その頃の私は子どもも生まれたばかりで、育休中。夜泣きで眠れない日々を過ごしていました。もう置いて行かれた感でいっぱいですよ。次第に彼女のブログを見るのもしんどくなって、ブロックしちゃいました(笑)だって、隣にいた友達がガンガン夢を叶えていくのを見るのはツラいです。
でもなぜか彼女の方はそんな私の状態はおかまいなしにちょくちょく連絡してきて、大分まで遊びに来たりしていました。そんなある日、彼女が聞いてきたんです。
「愛ちゃんの夢は何?」って。「は?」って思いました。夢を叶えて芸能人みたいになっている絶好調の人にキラキラした目でたずねられて、グサッときた。
30歳になって夢だなんて…その時、「私、旦那もいて子どももいて幸せだもん…」としか言えなかった。その日は何も答えられなかった自分が悔しくて眠れなかった。
完全に夢を忘れた私が、一晩中夢について考えて、考えて、やっと出てきた望みは“人を笑わせたい”だった。そして翌日、ブログを開設。とりあえず「すべらない話」みたいなものしばらく書いてみるもいいねは「2」くらいしか来ない(笑)
でも、ブログを書くことをはじめて半年後、昔の先輩がたまたま連絡してきたんです。「お前、絵が好きだったよね?ウチの家に飾る絵を描いてくれない?」と。新居のリビングに飾るという大作です。これは責任重大だなあ、と1週間くらいかけて一生懸命描いて思い出した。…あ、そういえば私、絵を描くのが好きだったんだ!振り返れば、なんだかんだ絵だけはずっと描いてきた自分に気がついた。
そこでブログに描いた絵をのせて「オーダーのアート引き受けます!」と募集してみたんです。はじめは2人ほど。でもオーダーで描いた作品を載せるとまたオーダーがくる。そうして、コンスタントにオーダーが来るようになってきた。おお、これって、画家みたいじゃん!さあ、楽しくなってきました。
勤めていたホテルは本当にいい会社だったしウエディングプランナーとして、勤め上げてもよかったんです。でも、人生このままで終わるより、きっと画家になるほうが楽しい!“明日何が起こるかわからない、ジェットコースターみたいな人生がいい!”って思えたんです。
2015年10月、サラリーマンは辞めて、画家になることにしたんです。
美大も出ていない素人が、絵を描くと15万円とかで売れていく。ずっと絵が好きだった私にとって、幸せすぎる緊急事態です。
当時よく描いていたのが、クジャクや招き猫。でも、クジャクを描いてブログに上げると、またクジャクのオーダーが来る。はい。はじめはよくても、さすがに飽きます(笑)。
だから「オーダーアート」は辞めることに決めました。
この飽きたら、スグ辞めるって大事だと思うんです。だって、楽しむために画家になったんだから。
後になって思うのはそれで正解だったということ。こうすれば受けるかな?この色が流行りかな?と自分の直感に従わず、変な打算をしながら、作品に向かうようになった瞬間もうそれは、パワーがない死んだものになり始めているんです。
2016年。脱サラしたけどオーダー画家に飽きちゃった…どうしようかなと家で考えていた私の目の前には、家を建てた時に私がふすまに描いていただるまがあった。
それをぐっと見ていたら、インスピレーションが湧いてネット通販で、白いだるまを取り寄せて絵付けをし始めた。これが、「ART DARUMA」のはじまりでした。
当初は値付けもわからなくて2000円で売ってみた。あまり売れない…
Happyちゃんに「2000円じゃないでしょ?」って言われる。
そこで値段を改定して8800円にした。飛ぶように売れて、スグ完売になり予約までどんどん入るようになった。でも1ヶ月で20個くらいしか作れないので、特に気に入っているヤツは3万円にした。それでも売れる。
売れたら私だってうれしくて、パワフルになって元気が出る。ブログに載せて、全国を回ってその場で描くワークショップをしてものすごいいっぱい作りました。
ファンの方も全国に増え、トークショーやバスツアーも開催。「専業主婦だった自分がなぜこんな風になれたのか」を語るとみんなの顔が明るくなることも知りました。私のストーリーは、勇気や希望を届けることができる。そんな確信も生まれてきました。
誰が見ても順風満帆の状況だった2017年、だるまに飽きてしまうんです(笑)
その時、感じていたのは「だるまアーティスト愛」と呼ばれることへの違和感。いつのまにか「だるま頼みの自分」になっているのが嫌だった。AI KABASAWAでいたかったんです。
だから一端お休みにして
今度は、キャンバスに抽象画を描くようになった。それもまた飛ぶように売れました。でも、ちょっとブームだから売れたのかと不安もあったんです。
そんな中、縁があって出会ったのが、草場一壽さんというアーティスト。有田焼の工法で焼き物の絵画を創るおじさんでダライラマ14世に作品を献上したり、マリナーズ時代のイチロー選手のトレーニングルームに作品を飾られたり…とにかくすごいおじさんなんです。
その草場さんが私の作品を見て「あら!嫉妬しちゃう…」って言ってくれたんです。「テクニックじゃなくてパワーを感じる」と。これで太鼓判をもらえたような気がしたんです。「うん!私、めっちゃすごいんだ」と素直に受け入れることができた。
2019年。LAでとある社長の豪邸に遊びに行ったんです。その中にあったのが、1台の赤いポルシェ。これが、ものすごくカッコよかった。私がずっと乗ってきたのは、軽自動車…
その2ヶ月後、ハワイに一人旅に出たとき
オープンカーをレンタルしてドライブをした。潮風を感じ、気持ちよくなった私は叫んでいました。「ポルシェ買うーーーーーー!!!」と。
でも、好きなことにどんどん使う私にお金はない。そこで思い出した。「矢沢永吉さんは、30億円の借金をタオルで返済した」と。これだ!!と。
ちょうどその頃、アート作品を表紙にしたオリジナルのノートが出来上がってきた。よし、このノートを3冊セット3000円で売る。5000冊売って、1500万円のポルシェを買おう!こうしてチャレンジを始めた。スグに売れてポルシェをゲット!本当にノートが魔法みたいにポルシェに化けた。
…ちなみにポルシェに乗って運転してみたら、なんか思ったより幸せじゃなかった(笑)それよりもノートの企画を配信した時に寄せられたたくさんのコメントが幸せだった。
「ぜったいほしい!」「愛さんの作品を持ち歩きたい!」と「手に入れられなかったあの作品をノートにしてほしい!」講演など、いろんな活動をしているけど私のど真ん中には、アートがある。
そうか、ただお金を稼ぐだけでは、魂は震えないんだ。ポルシェを運転しながら、わんわん泣いた。
2020年1月には、渋谷の西武百貨店のポップアップストアを開催。「ART DARUMA」を中心にした催事イベントでした。だるまを2年間休んで、創作意欲が思い切りチャージされていてバーンといっぱい創れました。
一番高い30万円の作品は、オープンと同時に売れました。大きめのダルマ14万3000円、小さいので4万1800円。持っていった絵も含めて、全てSOLD OUT。開催期間の1週間で3688万円の売上でした。
何も知らず通りすがりに気に入って買ってくれた方もたくさん。会場で作品をみたり、買って受け取るときに泣いてくれる人もたくさん。
ある専門家の人は、「買った人にとって作品自体がパワースポットになっている」と評価してくれた。なるほど確かに、私は線を描く前に線が見えていたり、買う人の存在までイメージしていることがあるなぁ、と思い当たった。
ともかく私は、好きなことをしながら生きることでパワーが出る。そんな自分が表現することで、受け取る人、支えてくれる人、いろんなエネルギーが動き出す。魂が震える方程式。そういうことを改めて実感できる時間になったんです。
実は私、声帯溝症という難病を持っています。社会人になってから患い、お医者さんからは、「一生カスレ声です」「声をあまり出さないよう」と言われています。声はずっと引きずってきたコンプレックスだったんです。とはいえ、おかまいなしに講演や配信などをやり続けてきたんですけど(笑)
エジプトに遊びに行った時、なぜかガイドさんが私の声をめちゃくちゃ気に入られたんです。「iPhoneで録音したいから歌って!」と追い回してくるほど。なんとなく「天城越え」なんかを歌ったら、「アナタハカシュニナルベキダ!ゼッタイウタッテクダサイ」なんて言うんです。
…そういえば、高校の頃は、廊下を熱唱しながら歩いていた。学祭では、バンドのヴォーカルもした。声が出にくくなってからは、声に悩み、呪い、カラオケも封印していた。歌えない代わりに口笛ばかりふいて、妙に上手くなった(笑)そうだ、私、音楽もアートと同じくらい好きだった!
だったら、また歌おう。自分の「大好き」を信じてやればいいじゃないか!そこから、はじめてオリジナル曲を作り、ライブを重ね、レコーディングもした。想像以上に楽しく、想像以上に感動してくれる人がいた。あんなにコンプレックスだったカスレ声は、ハスキーで「私にしか出せない声」になっていた。
歌を取り戻した私は、さらにミュージカルにも挑戦!脚本、キャスト、楽曲、ロゴ、イラストを募集。普通に生きてきた素人さんからプロまで巻き込んで、ゼロからみんなで創りあげました。
自分の好きなことを叶えるために動く。そこにジョインすることで、これまでの人生から脱皮し、輝きだす人までいる。そんな夢を叶える過程を「生」でみせることで、パワーをもらってくれる人もたくさんいる。こうして私は、また新たな表現手段をゲットしたのでした。
その後も私はビジネス塾を立ち上げて全国でマルシェを行ったり、オリジナルサプリメントの販売で月1000万円売り上げたり、アパレルブランドを立ち上げたり…その時、ワクワクすることに気が向くままに手を出し、遊び続けています。
ブログを終了させたり、インスタを一定期間削除したり、環境もいろいろ変えながら2023年現在、特殊メイクや造形工房のスクールで勉強中。2年ぶりにアート活動を再開しています。
日々の様々な出会いを通じて、いろんな刺激を受け新たな表現方法を手に入れたAI KABASAWAがどんな風にリボーンするのか。私自身も楽しみです。
全世界からオファーが届く人間になる。最新アートの発信地、NYのチェルシーにギャラリーを出す。そして、億越えの値がつくARTを生み出す人間になる。
これが、今の私の夢です。私が私のまま、私を越えていった先に、ぜったい実現できる日がくる。大まじめにそんなことを考えながら、今日もどこかで遊んでいます。
When I was a kid, I was a tomboy girl. I started practicing swimming at the age of 4. Since I became a champion, I had never lost the swimming race in Hokkaido. However, when I competed in the junior Olympic, I lost at a preliminary stage. Then, when I entered the select team to improve my swimming form, I fell into a slump and started to lose even in Hokkaido. At that time, I quieted swimming.
Although I pretended to be like “I'm not really bothered…” , I was so embarrassed and frustrated to death. A few years later, a swimmer who belonged to the same swimming school was on TV as an Olympic swimmer. I was dumbfounded in spite of cheering. If I had faced a slump, would I have been able to stand there too? Those words were spinning around in my head.
When I try something, I can do better than most people to some extent. Therefore, I make some effort and I don’t make my real best effort, and I talk to myself, "Well, this is fine, isn't it?." Ever since I was a swimmer, this has become a way of life.
I'm sure I was scared that "I tried so hard, but I don't reach it." When I became an adult, I realized this.
Around the beginning of junior high school, a PC came to my house. From junior high school to high school, I was constantly drawing with the paint tool. To be honest, I wanted to go to art school, but my strict parents told me "No one can make a living from arts!" So, I went to a sports college. But I was still drawing.Even after I became the manager of the rugby club in the college, I designed T-shirts and drew portraits of club members.Also, I wrote postcards and sold them at flea markets, and formed a band. I was a student who doesn't look like a sports college student at all.
Although I tried teaching practice for becoming a physical education teacher, after all, it wasn't fun for me. In the end, I got a job at a general company.
I joined a company that sounds like "THE sales company" that selling medical equipment.There were 20 people who joined the company at the same time, but they retired one after another, and I became the only one left. There were some seniors who sold a lot of equipment and made a lot of money. So, I admired them a little. I tried my best, and in my second year, I was able to make an annual income of 20 million yen.
But on the contrary, I felt empty when I stand at the same position where the seniors that I should have looked up to looked a little small.“Really. I can't be happy just by making money...” I realized
At the time, my boyfriend (now husband) is a firefighter.At the end of every month, he had no money and happily nibbled on jam buns. He seems happy without money. That's why I left the company
After I left the company, I married my boyfriend who I had been dating since I was a college student. I moved to his hometown, Oita, and became a full-time housewife.I did nothing for a few months and spent 24 hours only watching foreign dramas. Then, I got bored. Therefore, I got a job at a hotel in Oita and became a wedding planner.
One day, by chance, the customer's bride and groom found out that I am good at drawing, and they asked me to make a welcome board. When I drew one, I was asked one after another, and I drew quite a few.
When I turned 30, a friend of the same age who became friends at that workplace left the company and moved to Tokyo. When we were together, she was a rather dark and poor woman (laughs). But she suddenly started writing blogs and sparkle. And she said, "With my blog, I WILL publish a book!" I said, "No, it's impossible!"
But eight months later, she successfully published the book. She became very popular in a blink of an eye and started to make a lot of money. I was like spaced out. This girl is Happy-chan who is still with me.
At the time, I had just had a baby and was on maternity leave. I was spending my sleepless days because my baby was crying every night. I feel like I've been left behind. Gradually, it became hard for me to read her blog, so I blocked her (laughs). It was so hard to see my friends who was with me making her dream come true
But for some reason, she doesn't care about my condition and contacted me often and even came to visit me in Oita.
One day, she asked me. "What is Ai-chan's dream?" "Huh?" I thought. My heart hurt because who have fulfilled their dreams and become like celebrities asked me this question with a twinkle in his eye.
Having dream despite I am already 30…
At that time, I could only say, "I'm happy because I have a husband and children." I couldn't sleep well because I couldn’t answer the question that day.
I, who completely forgot my dream, thought and thought about my dream all night long. The wish that finally came out was "I want to make people laugh". Then, I started a blog the next day. For the time being, I'll write something like "unfailing funny stories" for a while. There were only 2 “Likes”. (Laugh)
However, half a year after starting to write a blog, an old friend just happened to contact me."I remember you liked painting, don't you? Can you paint a picture for my house?" It is a monumental work to decorate in the living room of the new house. I thought “this is a big responsibility” and spent about a week trying to draw. Then, I remembered that “…Oh, come to think of it, I used to like drawing!” Looking back, I realized that I had always been drawing pictures for a long time somehow.
So, I put the picture I drew on the blog and tried to sell my art. "I will accept custom art!" Two people ordered it at first. But when I post a custom-made work, I get other orders. After that, orders began to come in constantly. Oh, you look like a painter! I started to feel fun.
The hotel I worked for was a good company and working as a wedding planner was good for me. But I was sure it was more fun to be a painter than what I was then. “I don’t know what will happen tomorrow, but I like life moving like a roller coaster!” That's what I thought. In October 2015, I decided to quit being a salaryman and become a painter.
An amateur who has never graduated from an art school can sell the paintings for 150,000 yen. For me, who has always liked painting, this is a very happy emergency.
At that time, I often drew peacocks and beckoning cats. But when I draw a peacock and post it on my blog, I get another peacock order. yes. Even if it was good at first, I got bored of it (laughs).
That's why I decided to quit accepting "order art". I think it's important to quit as soon as you get tired of this. Because I became a painter for fun.
In hindsight, I think that was the right thing to do. My arts start to become a dead thing with no power if I do weird calculations without following my intuition.
In 2016, I quited my job and got tired of being an order painter... In front of me who was thinking about what to do at home, there was a Daruma that I drew on the fusuma when I built the house.
When I looked at it for a long time, I was inspired. I ordered a white daruma doll from an online store and started painting it. This was the beginning of "ART DARUMA"
At first, I didn't know the price, so I sold it for 2,000 yen. It doesn't sell very well... Happy-chan said, "Isn't it 2000 yen?"
Therefore, the price was revised to 8800 yen. It sold like hot cakes, sold out quickly, and we started getting more and more reservations. But since I can only make about 20 pieces in a month, some darumas that I especially liked were 30,000 yen. Still sold.
When the daruma flew off the shelves, I became happy, powerful and energized. I put it on my blog, and travel around the country and hold workshops to draw on the spot. I made a lot of daruma.
The number of my fans has increased nationwide, and I held talk shows and bus tours, too. When I talked about "Why did I become like this when I was a full-time housewife?", fan's face lighted up. My stories could deliver courage and hope. Such conviction has been born.
In 2017, when I enjoyed a problem-free life, I got tired of Daruma (laughs)
At that time, I felt uncomfortable with being called "daruma artist AI". I hated the fact that I had become someone who relied on Daruma dolls. I wanted to be AI KABASAWA.
So, I took a break and started painting abstract paintings on canvas. It also sold like hot cakes. However, I was worried that it might sell because it was a little boom
It was during this time that I met an artist called Kazuhisa Kusaba. He is an uncle who creates pottery paintings using the Arita ware method. He presented works to the 14th Dalai Lama and his work is displayed in Ichiro's training room... Anyway, he's a great uncle.
Mr. Kusaba saw my work and said, "Oh! I'm jealous..." "I feel power from the art." I felt like I was given a stamp of approval.
In 2019, I went to a certain president's mansion in LA. There was a red Porsche. This was really cool. I've been riding a light car for a long time...
Two months later, when I traveled to Hawaii alone, I rented an open car and went for a drive. Feeling the sea breeze, I was screaming. "I will buy Porsche !!!
But I didn't have money to spend more and more on what I like. Then, I remembered that "Eikichi Yazawa paid off his 3 billion yen debt with his towels." This is it!
Just around that time, my original notebooks whose cover is decorated by my have been completed. “All right, I'll sell this notebook for 3000 yen as a set of 3. I’ll Sell 5000 notebooks and buy a Porsche for 15 million yen!” Thus, I began the challenge. As a result, 5000 notebooks were sold quickly and I got a Porsche! The notebooks really turned into a Porsche like magic./p>
... By the way, when I drove a Porsche, I wasn't as happy as I thought (laughs). Rather than that, I was very happy with the many comments I received when I delivered the plan for the notebook on webcast.
My fans said "Definitely I want it!" "I want to carry around Ai's work!" "I want you to make notebooks of that work that I couldn't get!" I do a lot of things like giving lectures. But after all, there is art in the middle of me
Well, just making money doesn't make my soul shake. I cried while driving my Porsche.
In January 2020, I held a pop-up store at Seibu Department Store in Shibuya. It was an event for "ART DARUMA". After taking a break from Daruma for two years, my creative motivation has been recharged. I was able to create a lot of Daruma.
The most expensive piece, priced at 300,000 yen, sold as soon as it opened. All sold out, including large Darumas, cost 143,000 yen, a small Darumas, cost 41,800 yen, and the paintings. It was sales of 36.88 million yen in a week.
A lot of people who passed by without knowing anything about me liked and bought Darumas. Many people cried when they saw the work or when they bought and received it.
One expert said "For the person who bought it, the work itself has become a power spot." Indeed, I can see the line before I draw it and imagine even the existence of people who will buy the work.
Anyway, I got power by living while doing what I like. This is a formula that shakes the soul. It's time to experience that again.
Actually, I have an incurable disease called vocal cord groove disease. The doctor said that "You have to have a raspy voice for the rest of your life" and "don't raise your voice too much". So, I had a complex about my voice for a long time. Nonetheless, I have continued to give lectures and broadcasts without worrying about it (laughs).
When I went to Egypt for fun, for some reason the guide really liked my voice. "I want to record your voice with my iPhone, so sing!" When I sung Japanese song, they said “You should definitely become a singer!”
…Come to think of it, when I was in high school, I used to walk in the hallway singing passionately. At the school festival, I was also the vocalist of the band. After it became difficult to sing because I was worried about my voice, I cursed it and bnever went to karaoke. Instead of being able to sing, all I could do was whistle, and I became so good at it (laughs). Yes, I loved music as much as art!
Then I wanted to sing again. I just had to believe in my favorite things. From there, I made original songs for the first time, repeated live performances, and recorded my singings. There were more people who enjoyed my music and were moved by my music than I imagined. The raspy voice that was my complex turned to be a good husky voice that is "a voice that only I can make".
When I restarted to sing, I challenged the musical, too! We all, from amateurs who have lived normally to professionals, created it from scratch.
Move to achieve what you love. By joining there, there are even members who starts to shine. There are many people who get power by showing the process of making my dream come true. This is how I found a new means of expression.
After that, I started a business cram school and held marches all over the country. Also I earned 10 million yen a month by selling original supplements. Then, I launched an apparel brand... At that time, to be excited, I dabble in whatever I feel like and keep playing.
As of 2023, I am studying at a special makeup and modeling studio school. I have resumed my art activities for the first time in two years.
How does AI KABASAWA, who has acquired a new way of expression, reborn by receiving various stimuli through various daily encounters? I'm looking forward to it myself.
Become a person who receives offers from all over the world. Open a gallery in Chelsea, NY, the birthplace of the latest arts. And become a person who creates arts with a value of over 100 million.
This is my dream now.
My dream will come true when I surpass myself just the way I am. While seriously thinking about such things, I am playing somewhere today as well.